📿 御朱印情報

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勧修寺の写真

勧修寺

京都府 京都市 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6

由緒

ふむ、吾輩が勧修寺の由緒を語ってやろうではないか。 京の都の山科に鎮座する勧修寺、その歴史は平安の世にまで遡る、まことに古き寺であるぞ。昌泰三年、西暦900年のことじゃな、当時の帝、醍醐天皇が亡き母、藤原胤子殿の追善のために建立を命じられたのが始まりなのじゃ。胤子殿は宇多天皇の女御であらせられたが、醍醐天皇の即位を見ることなく、昌泰二年にお隠れになられた。吾輩もその頃はまだ若き身であったが、帝の深い悲しみはよく記憶しておるぞ。 母君の菩提を弔うため、醍醐天皇は藤原定国を奉行としてこの地に寺院を建立させられた。寺号の「勧修寺」は、胤子殿の実家である藤原氏の氏寺に由来するとも言われておるな。そして開山には、醍醐天皇の師でもあられた真言宗の僧、承俊大徳が迎えられたのじゃ。承俊大徳は宇多天皇の皇子でありながら出家し、真言密教の奥義を極められたお方じゃった。かくして勧修寺は真言宗の寺院として産声を上げ、皇室や藤原氏の厚い庇護のもと、その法灯を輝かせ始めたのであるぞ。 平安中期には、皇室との繋がりはさらに深まり、多くの皇族や貴族が出家し、あるいは寺院の運営に携わったものじゃ。特に宇多天皇の皇子であられた寛朝大徳は、勧修寺の座主を務められ、伽藍の整備や法灯の維持に大変な尽力をされたのじゃ。勧修寺は真言密教の学問の中心地としても栄え、多くの学僧がこの地で修行に励んだものじゃな。 しかし、世は常に平穏とは限らぬ。応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱により、勧修寺は甚大な被害を受け、一時は荒廃の一途を辿ったのじゃ。吾輩もその光景には心を痛めたものじゃ。だが、江戸時代に入ると、徳川幕府や皇室の支援により再興が進められ、現在の伽藍の基礎が築かれたのである。特に江戸初期には、後水尾天皇の皇女である明正天皇が勧修寺に入寺され、寺院の復興に尽力されたことは特筆すべきことじゃな。 明治維新以降も、勧修寺は真言宗山階派の本山として、その法灯を今日まで守り続けておる。四季折々の美しい庭園や、重要文化財に指定された建造物などが一般に公開されており、今も多くの参拝者や観光客が訪れておるぞ。特に氷室池に映る観音堂の姿は、まことに風情があるものじゃな。

ご利益

家内安全 学業成就 厄除け 健康長寿 諸願成就