kyou yamadera
Oita 明治になって興山寺は青巌寺と合併し金剛峯寺と呼ばれるようになりました。 由緒ある名刹の廃寺を惜しんだ当時の傑僧山縣玄浄僧正は、臼杵稲葉氏の協力を得て、現在の臼杵市 meiji ninatte kyou yamadera ha seigan tera to gappei shi kongou mine tera to yoba reruyouninarimashita . yuisho aru meisatsu no haiji wo oshi nda touji no kessou yamagata gen jou soujou ha , usuki inaba shi no kyouryoku wo ete , genzai no ooitaken usukishi ni kouyasan yori jigou wo utsushi , usuki shourai no han'ei wo hakari , kyuushuu matsudai no shinkou wosaka . . .
History
吾輩が語るは、興山寺の由緒であるぞ。 興山寺はのう、かつて高野山に鎮座しておった、まことに由緒正しき名刹であったのじゃ。創建の年や、いかなる神仏を祀っておったか、具体的な記録は残されておらぬ。しかし、その歴史の古さは、吾輩の記憶にも鮮やかに刻まれておる。高野山の中でも、ひときわ重要な寺院であったことは疑いようのない事実であるぞ。 時は流れ、明治の世となり、興山寺は青巌寺と一つとなり、金剛峯寺と名を改めたのじゃ。これによって、興山寺という寺号は、高野山から姿を消すこととなった。しかしじゃ、当時の傑僧であった山縣玄浄僧正は、この由緒ある名刹が廃寺となることを深く深く惜しまれたのじゃ。 山縣玄浄僧正は、興山寺の寺号を後世に伝えるため、そして九州の地における仏教信仰のさらなる隆盛を願い、臼杵稲葉氏の協力を得て、現在の大分県臼杵市へ、高野山より興山寺の寺号を移されたのであるぞ。これは、臼杵の将来の繁栄を願い、九州における末代までの信仰を盛んにするための、まことに壮大な計画の一環であったのじゃ。 このようにして、高野山にあった興山寺の精神と歴史は、遠く離れた臼杵の地で、新たな形として受け継がれることになったのである。現在の興山寺は、高野山から受け継いだ寺号の下、地域の信仰の中心として、また歴史と文化を伝える重要な存在として、その役割を果たしておるのじゃ。創建年や祭神の詳細は不明ではあるものの、その移転の経緯からは、当時の人々の篤き信仰心と、寺院の存続にかける熱い思いが、ひしひしと伝わってくるではないか。まこと、見事な話であるぞ。