方広寺
基本情報
由緒
吾輩は方広寺に古くから住まう白狐じゃ。この寺の由緒、吾輩の目で見てきたことを話してやるのじゃ。 方広寺は、京の都の東山に位置する臨済宗の寺院じゃが、その始まりは天下人、豊臣秀吉公が築いたことに端を発するのじゃ。 文禄四年(1595年)、秀吉公は奈良の東大寺に倣い、ここに巨大な大仏殿を建立し、大仏を安置しようとしたのじゃ。天下を統一した秀吉公は、自らの権威を示し、国家の安寧と繁栄を祈願するために、この壮大な計画に着手したのであるぞ。じゃが、秀吉公がこの世を去った後、慶長元年(1596年)に起こった慶長伏見地震により、完成間近であった大仏殿と大仏は、あっけなく倒壊してしまったのじゃ。 その後、秀吉公の嫡男である豊臣秀頼公が再建に取り掛かり、慶長十七年(1612年)には大仏殿と大仏が完成したのじゃ。この再建の際に鋳造されたのが、かの有名な「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が刻まれた梵鐘であるぞ。しかし、この銘文に対し、徳川家康公は「家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を願うもの」と難癖をつけたのじゃ。これが大坂の陣を引き起こす一因となったことは、歴史を知る者なら皆知っておるじゃろうな。 大坂の陣の後も、方広寺は度重なる災難に見舞われたのじゃ。寛文二年(1662年)には地震により大仏殿が倒壊し、大仏も損壊。その後も火災や落雷などにより、大仏殿や大仏は再建と損壊を繰り返したのであるぞ。現在の本堂は、明治時代に再建されたものであり、往時の壮大な大仏殿の姿は、もうここには残っておらぬのじゃ。 方広寺は、豊臣秀吉公の天下統一の象徴であり、また、江戸時代の幕開けを告げる大坂の陣の舞台裏ともなった、日本の歴史において非常に重要な役割を果たした寺院であるぞ。その歴史は、権力者の盛衰と、それに翻弄される人々の営みを、今に伝えているのじゃ。