石山寺(滋賀県大津市)の境内を歩いていると、本堂への石段を登りきった先に、朱塗りの小さな塔が現れる。高さ13メートルほど。下層は丸みを帯びた円筒形で、上層は整然とした四角い格子壁——そして頂部には細長い相輪が天を指す。五重塔でも三重塔でもない、他の塔とは明らかに違うシルエット。これが**多宝塔(たほうとう)**だ。
1194年(建久5年)に建てられたこの石山寺の多宝塔は、日本最古の多宝塔の一つとして国宝に指定されている。しかしその希少性は年代だけにあるわけではない。「下が丸く、上が四角い」——この組み合わせが生まれた理由、そこに込められた宗教的意味、密教との深い結びつきを知ると、この塔がただの景観構造物ではなく、仏教の宇宙論を立体的に表現した思想の結晶であることがわかる。
全国に現存する多宝塔は約400棟。そのほとんどが真言宗・天台宗という密教系の寺院に属している。御朱印を求めて寺院をめぐるとき、境内に多宝塔を見かけたならば、それはその寺院が密教的な性格を持つことを示す建築のサインだ。
多宝塔とは何か
**多宝塔(たほうとう)**は、二重塔の一形式だ。日本の仏塔には三重塔・五重塔・二重塔などがあるが、多宝塔は「下層が円形、上層が方形」という独特の構成を持つ点で、他のすべての塔と異なる。
通常の二重塔は上下ともに四角い平面を持つ。多宝塔では、下層の柱を円形に並べ、その上に「亀腹(かめばら)」と呼ばれる白漆喰塗りの饅頭形の台座を設け、そこから上層の四角い構造が立ち上がる。この円と方形の組み合わせが、多宝塔を視覚的に際立たせる最大の特徴だ。
別名を**大日塔(だいにちとう)**とも呼ぶ。真言密教では大日如来(だいにちにょらい)を宇宙の中心に据えるが、多宝塔の円形(下)と方形(上)が、それぞれ胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)——密教の二つの世界観——を象徴するとされるためだ。
英語では “Tahoto” あるいは “Multi-treasure Pagoda”(多宝の塔)と呼ばれる。海外の仏教建築に直接の類例はほとんどなく、多宝塔は事実上、日本において独自に発展した建築様式と言ってよい。
多宝如来と法華経——塔の宗教的起源
なぜ「多宝」という名なのか。その答えは法華経(ほけきょう)の第11章「見宝塔品(けんほうとうほん)」にある。
釈迦牟尼(しゃかむに、ゴータマ・ブッダ)がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で法華経を説いていたとき、突然、地中から巨大な宝塔(ほうとう)が出現した。塔は七宝(しっぽう)——金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙(めのう)——で飾られ、天空高くそびえ立った。その宝塔の中から声が響いた——「善哉(よきかな)、善哉(よきかな)、釈迦牟尼世尊よ。あなたの語ることはすべて真実である」。
声の主は多宝如来(たほうにょらい、梵名:プラブータラトナ / Prabhūtaratna)、はるか東方の「宝浄世界(ほうじょうせかい)」に住む仏だ。多宝如来はかつてこのような誓願を立てていた——「自分が入滅(にゅうめつ、仏の死)したのち、法華経が説かれる場所があれば、自分の宝塔がそこに出現して、その真実を証明しよう」と。
この劇的な場面が「見宝塔品」の核だ。多宝如来の宝塔が出現するという情景、そして塔の中に多宝如来と釈迦牟尼の二仏が並んで座る「二仏並座(にぶつびょうざ)」のイメージが、後世の仏教美術・建築に大きな影響を与えた。
建築としての多宝塔は、この「多宝如来の宝塔」のイメージを石と木で表現したものとされる。内部に多宝如来または大日如来を安置し、塔そのものが「多宝如来の現前」を示すシンボルとして建てられた。
密教の解釈では、多宝塔の円形(下層)と方形(上層)に別の意味が重ねられる。円形は「胎蔵界(たいぞうかい)マンダラ」——母胎のように一切を包み込む、智慧の潜在的な広がり——を表す。方形は「金剛界(こんごうかい)マンダラ」——堅固で揺るぎない覚りの智慧——を表す。胎蔵界と金剛界の二つは、密教の宇宙観における「現象」と「本質」の対であり、この二つが一つの塔に統合されていることが、多宝塔の密教的意義だ。
真言密教を日本に伝えた空海(くうかい、774〜835年)はこう述べている——「大日如来こそが宇宙の本体であり、あらゆる存在はその表現である」。多宝塔はその思想を塔の形に変換した「立体マンダラ」と言ってよい。
多宝塔の構造——円と方形が重なる仕組み
多宝塔を外から眺めるだけでなく、その構造を知ると見え方が変わる。下から上へと、各部位の名称と役割を見ていこう。
基壇(きだん)
地面に設けられた石造の台座。四角形または八角形が多く、石段を上がって基壇の上に立って初めて塔に近づける。基壇の存在が、塔を「地面から切り離された聖なる空間」として際立たせる。
下層の柱列と裳階(もこし)
下層の周囲には、等間隔に柱が円形に立ち並ぶ。柱の外側には「裳階(もこし)」と呼ばれる庇(ひさし)状の屋根が一段設けられており、これが多宝塔の下層に独特のスカート状の広がりを与える。裳階の内側は回廊になっており、礼拝者が外から塔を一周する形で礼拝できる。この回廊を「外陣(げじん)」と呼ぶ。
下層の内部(「内陣」)には、仏像が安置されることが多い。内陣は一般に非公開だが、特別開帳の機会に内部を見られる寺院もある。
亀腹(かめばら)
多宝塔の最も視覚的な特徴のひとつが亀腹だ。下層と上層の間にある、白漆喰(しっくい)で塗られた饅頭形の膨らみで、名前の通り亀の腹の丸みに似ている。この亀腹の存在が、下層の円形と上層の方形を視覚的につなぐ「翻訳装置」として機能する。
構造的には、亀腹は上層の床台盤であり、その上に方形の上層が乗る。白漆喰の色は外壁の朱色や黒色と対比し、遠くからでも亀腹の位置が一目でわかる。この白い膨らみの独特さが、多宝塔を他の塔と即座に区別させる。
上層
上層は四角い平面を持つ。壁面には板戸(いたど)または連子窓(れんじまど)が取り付けられ、その上に二軒(ふたのき)の軒が出る。上層の内部には多宝如来または大日如来が安置されることが多く、真言密教の中心的な礼拝空間となる。
上層の柱は下層より細く、装飾も繊細になる傾向がある。鎌倉時代の多宝塔では、柱の上に複雑な組物(くみもの)が積み上げられ、荷重を支えながら視覚的な格調を高めている。
宝形造りの屋根(ほうぎょうづくり)
上層の屋根は「宝形造り(ほうぎょうづくり)」——四方に均等に傾斜した屋根が一点に集まる形式。四角錘(ピラミッド型)の屋根だ。この屋根の頂点から相輪が立ち上がる。軒の反りは和様(わよう)では緩やかで優美に、大仏様(だいぶつよう)または禅宗様(ぜんしゅうよう)の影響を受けた塔では、より急峻で力強い印象になる。
相輪(そうりん)
塔の最上部に立つ金属製の飾り。下から順に「露盤(ろばん)」「伏鉢(ふくはち)」「請花(うけばな)」「九輪(くりん)」「水煙(すいえん)」「龍車(りゅうしゃ)」「宝珠(ほうしゅ)」が重なる。九輪は仏教の「三界」の世界観を表し、水煙の波状の意匠が空中にたなびく炎または水の動きを表現する。
塔全体の高さに占める相輪の比率は、時代・様式によって異なる。多宝塔では五重塔より相輪が相対的に長い傾向があり、天に向かって伸びる垂直の鋭さが際立つ。

多宝塔の歴史——日本への伝来と独自の発展
多宝塔の起源は、仏教発祥の地インドに遡る。インドでは仏陀の遺骨(仏舎利)を納めるために「ストゥーパ(stupa)」と呼ばれる半球形の建築物が作られた。このストゥーパの「ドーム(下)と竿(上)」という垂直構成が、後に中国・日本で「塔」という建築形式に変容した。
仏教が中国に伝わると(前漢・後漢期)、ストゥーパは中国の楼閣建築と融合し、多層の木造塔として発展した。中国の塔は四角形または八角形の平面を持つものが多い。
日本に仏教が伝来したのは6世紀(538年または552年の伝来説がある)。飛鳥時代から奈良時代にかけて、法隆寺五重塔(607年頃)・東大寺(752年)・薬師寺(680年代)など、中国・朝鮮の建築様式を手本にした寺院が次々と建てられた。
しかし多宝塔が日本に現れるのはやや遅く、**平安時代後期(10〜12世紀)**のことだ。その背景には、密教の伝来と定着がある。
804年(延暦23年)、最澄(767〜822年)と空海(774〜835年)がほぼ同時に遣唐使として唐に渡り、それぞれ天台密教・純密(真言密教)を日本に持ち帰った。密教は「秘密の儀軌(ぎき)」に基づく精緻な儀式・修法・曼荼羅崇拝を特徴とし、その儀式を執り行うための特別な建築が必要だった。
多宝塔は、この密教の儀式空間として整備された。比叡山延暦寺・高野山金剛峯寺を中心とする密教寺院が全国に広がるにつれて、多宝塔も寺院の重要な構成要素として普及した。
現存する最古の多宝塔は**石山寺(1194年、鎌倉時代初期)**だが、文献記録によれば平安時代には複数の多宝塔が建立されており、多くは火災・戦乱で失われた。特に1467年から続いた応仁・文明の乱(応仁の乱)では、京都を中心に多くの寺院建築が灰燼に帰した。
鎌倉時代(1185〜1333年)は日本の木造建築が技術的に最も飛躍した時期のひとつだ。中国から「大仏様(だいぶつよう、天竺様)」と「禅宗様(ぜんしゅうよう)」という新しい建築様式が伝わり、既存の「和様(わよう)」と融合した。この三様式の融合が「折衷様(せっちゅうよう)」として結晶した。鎌倉期の多宝塔には、和様の穏やかな軒の反りと大仏様の力強い組物が混在するものも多い。
室町・安土桃山時代(14〜16世紀)には、戦国大名の庇護のもとで寺院の再建・拡張が行われた。根来寺大塔(1547年)は織田信長より前の時代の建立で、根来寺が「根来衆」として戦国の軍事勢力としても機能していた時期の産物だ。豊臣秀吉の根来攻め(1585年)で寺院のほとんどが焼けたにもかかわらず大塔だけが残ったのは、強風で火の粉が飛ばなかったためとも、大塔に秀吉自身が感銘を受けたためとも伝えられる。
江戸時代(1603〜1868年)以降は、新規の多宝塔建立より既存の修復・保存が主流となった。明治以降は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐を乗り越え、国宝・重要文化財として近代的な保護制度の下に置かれた多宝塔が増え、現在に至る。
宝形造りとは何か
多宝塔の上層屋根として登場した「宝形造り(ほうぎょうづくり)」について、独立した視点で見ておきたい。
宝形造りは、四角形(正方形)の平面から四方に傾斜する屋根面が、頂部の一点(棟)で収まる形式だ。三角形の屋根面が四枚、頂点一点で集まる正四角錘(ピラミッド)形の屋根と言えばわかりやすい。「方形造り(ほうぎょうづくり)」「方形屋根」とも呼ばれる。
この屋根形式は多宝塔だけでなく、神社や寺院の各種建物に広く用いられる。神社では境内の小祠(こほこら)や神楽殿に、寺院では手水舎・鐘楼・経蔵などに宝形造りが採用される例が多い。また茶室建築では、躙口(にじりぐち)を持つ小間の茶室に宝形造りの屋根を持つものが数多くある。
宝形造りの屋根は「完結した形」として認識される。棟が横に伸びる切妻造り(本の山型)や、棟が短く四方に傾斜する寄棟造りと異なり、宝形造りは頂点一点に収斂(しゅうれん)する。この「四方が一点に向かう」構造が、「中心への集中」「宇宙の頂点」という象徴的な意味を持つとされる。
仏教では五輪塔の最上部——「空(くう)」を表す宝珠形——がこれに対応する形として解釈されることもある。多宝塔の上層に宝形造りが採用されているのは、この「収斂」の象徴性が、密教の宇宙論における「一元的な中心(大日如来)」という思想と一致するためだ。
なお、八角形の平面から八方に傾斜する屋根が一点に集まる形式は「八角堂(はっかくどう)」の屋根とも呼ばれ、宝形造りの変形版だ。法隆寺の夢殿(ゆめどの)が代表例で、こちらは多宝塔と同様に密教的な礼拝空間として機能してきた。
代表的な多宝塔
石山寺多宝塔(滋賀県大津市)——国宝・現存最古

建立: 1194年(建久5年)
指定: 国宝
高さ: 約13メートル
石山寺の多宝塔は現存最古の多宝塔の一つだ。本堂の右手、境内奥の岩盤の上に建てられており、白漆喰の亀腹と朱塗りの柱が対比する端正な美しさがある。1194年という年代は源頼朝が鎌倉幕府を成立させた(1185年)直後にあたり、平安末期から鎌倉初期の建築様式を体現する。
石山寺は747年(天平19年)の創建とされ、本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)。紫式部が『源氏物語』の構想を得た場所としても知られる。多宝塔の内部には大日如来と多宝如来が安置されており、塔としての密教的性格が明確だ。
御朱印は複数の種類があり、「多宝如来」「大日如来」「如意輪観世音」などが書かれる。特別開帳の期間には、普段は非公開の多宝塔内部を拝観できることもある。
根来寺大塔(和歌山県岩出市)——日本最大の多宝塔
建立: 1547年(天文16年)
指定: 国宝
高さ: 約40メートル
根来寺(ねごろじ)の大塔は、高さ約40メートルという日本最大の多宝塔だ。根来寺は真言宗の一派・新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)の総本山で、平安時代末期の高僧・覚鑁(かくばん、1095〜1143年)によって高野山内に設けられた道場が前身。後に高野山との対立から現在地(和歌山県岩出市)に移転し、独自の宗派として発展した。
大塔が現在の形を備えたのは1547年だが、1585年の豊臣秀吉による根来攻め(根来焼き討ち)でほとんどの堂宇が灰燼に帰した際も、この大塔だけは焼け残った。現在の外観は後世の修復によるが、骨格は室町時代のままだ。規模の巨大さと優雅な相輪の組み合わせが、日本の仏塔建築の到達点のひとつとされる。
御朱印は「大日如来」の墨書が主体で、大塔の印章が押されることもある。
金剛三昧院多宝塔(和歌山県高野町・高野山)——国宝
建立: 1223年(貞応2年)
指定: 国宝
高野山の塔頭(たっちゅう)のひとつ、金剛三昧院にある多宝塔。鎌倉幕府の有力者・北条政子が源頼朝と源実朝の菩提を弔うために建立したと伝えられる。鎌倉時代前期の建築で、亀腹の比例・柱の間隔・裳階の出幅などに鎌倉期の技術的洗練が見られる。
高野山は空海(弘法大師)が806年に開いた真言密教の聖地。現在も多くの塔頭・堂宇が集まり、御朱印めぐりの目的地として最高の密度を持つエリアのひとつだ。金剛三昧院の多宝塔は、高野山の中でも最も重要な建築のひとつとして静かな存在感を放つ。
海住山寺多宝塔(京都府木津川市)——国宝
建立: 1214年(建暦4年)
指定: 国宝
奈良・木津川市の山中に建つ海住山寺の多宝塔は、鎌倉時代の多宝塔の中でも保存状態が特に良いことで知られる。軒の出・柱の細さ・相輪の比率などが鎌倉初期の様式を忠実に伝えており、仏教建築史の研究資料として高い評価を受ける。
寺院は静かな山道を歩いた先にあり、観光地化が進んでいないことから参拝者も少ない。落ち着いた雰囲気の中で、時間をかけて塔と向き合える場所だ。御朱印は「十一面観音」が中心。
護国寺多宝塔(東京都文京区)——重要文化財

建立: 1938年(昭和13年)
指定: 重要文化財
東京・文京区の護国寺にある多宝塔は、20世紀建立の比較的新しい多宝塔だ。1938年の建立でありながら、昭和前期の伝統様式建築として重要文化財の指定を受けている。境内には月光殿(国宝)や応長の石塔など重要な建築が集まり、都内にありながら密度の高い寺院建築を見られる場所だ。
護国寺は1681年(延宝9年)、五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の発願で建てられた真言宗豊山派の寺院。現在も広大な境内を都市の中に保ち、墓地には多くの著名人が眠る。多宝塔は境内の北東エリアに位置し、本堂(仁王門・元禄の時代の建物)とあわせて参拝できる。
その他の注目すべき多宝塔
**金剛輪寺(こんごうりんじ、滋賀県愛荘町)**は、天台宗の寺院で多宝塔(重要文化財)と三重塔を合わせて持つ珍しい寺院だ。湖東三山(ことうさんざん)のひとつとして紅葉の名所でもある。境内に複数の塔形式が並ぶことで、多宝塔と三重塔の外観の差が一目で比較できる、建築的に見どころの多い場所だ。
**常楽寺(じょうらくじ、神奈川県厚木市)**の多宝塔は重要文化財で、鎌倉時代に関東で建てられた多宝塔として貴重な例だ。真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天(びしゃもんてん)。関東地方は真言宗の拠点が多く、常楽寺はその中でも規模・歴史ともに注目すべき寺院だ。
**岩船寺(がんせんじ、京都府木津川市)**は関西花の寺霊場の一つで、多宝塔(重要文化財)と三重塔を合わせ持ち、あじさいの季節には多くの参拝者が訪れる。海住山寺からも車で数分の距離にあり、木津川市の寺院群をまとめて巡るルートに組み込みやすい。
多宝塔と五重塔——二つの塔の違い
多宝塔を見るとき、五重塔との比較を意識すると理解が深まる。
層数と平面。五重塔は5層すべてが四角い平面を持つ。多宝塔は2層で、下層が円形・上層が方形という対比を持つ。この「層が少ないのに形式が複雑」という特性が、多宝塔の視覚的な密度を高める。
宗派との関係。五重塔は宗派を問わず様々な寺院に見られる(法隆寺・東寺・醍醐寺など)。多宝塔は密教系(真言宗・天台宗)の寺院にほぼ限定される。その意味で多宝塔は「密教建築の象徴」と言える。
高さと存在感。五重塔は高さ30〜50メートルの大型のものが多く、遠景からも視認できる。多宝塔は一般に15〜25メートル程度が多く(根来寺大塔は例外的に40メートル)、境内の中で控えめだが精緻な存在感を放つ。
内部と礼拝形式。五重塔の内部は一般に非公開で、礼拝は外から行う。多宝塔には裳階(外廊)が設けられており、下層を外からぐるりと一周できる構造が多い。これは礼拝者が塔を「右繞(うにょう、右回りに周回する礼拝法)」できるよう設計されたためで、密教の礼拝様式を空間的に表現している。
多宝塔を「読む」——境内で立ち止まるポイント
多宝塔に出合ったとき、ただ写真を撮るだけでなく、いくつかの「読み方」を持っておくと体験が深まる。
亀腹の白さを確認する。下層と上層の間にある白漆喰の亀腹が鮮明か、くすんでいるかで、保存状態や修復の時期がわかる。白く鮮明ならば近年の修復または管理が行き届いている。苔が生えていれば年月の重さを感じる。
裳階(もこし)の広がりを見る。下層の周囲に広がる庇状の屋根(裳階)の出幅は、寺院や時代によって異なる。根来寺大塔は裳階が特に広く、塔全体が「どっしりと広がる」印象を持つ。石山寺は塔の規模が小さく裳階も控えめで、繊細な印象だ。
相輪の形と長さを見る。多宝塔の相輪は五重塔のそれより細長い傾向がある。九輪の間隔・水煙の形・頂部の宝珠の大きさを見ると、時代や工房の違いが反映されている。
塔の向きを確認する。多宝塔は一般に東側を正面として建てられることが多い(仏が西方を向くため、礼拝者が東から西に向かって礼拝する)。ただし地形や境内の配置によって異なる場合も多い。
何が祀られているかを調べる。境内の案内板や寺院のパンフレットで、多宝塔に何が安置されているかを確認しよう。多宝如来・大日如来・釈迦如来など、祀られる仏によってその塔の密教的性格が変わる。
御朱印と多宝塔——塔を訪ねる参拝の形
多宝塔を持つ寺院を御朱印めぐりの目的地にするとき、いくつかの視点を持っておくと体験が深まる。
「大日如来」の御朱印を選ぶ。真言宗の寺院では複数の御朱印を用意していることが多い。多宝塔と縁の深い「大日如来」「多宝如来」の朱印を選ぶと、訪問先の密教的な意義と御朱印が重なる。
特別開帳を狙う。石山寺・根来寺などの主要寺院では、春と秋の特定の期間に「特別開帳」を行い、普段は非公開の多宝塔内部や秘仏を拝観できる機会がある。こうした時期に合わせて訪れると、御朱印だけでなく内部の仏像にも出会える。
高野山(こうやさん)の複数の塔頭を巡る。高野山には金剛三昧院以外にも多くの塔頭があり、それぞれ独自の御朱印を授与している。高野山全体を「多宝塔のある密教の都」として俯瞰しながら参拝すると、一日かけて深く巡る計画が立てやすい。
多宝塔が伝えるのは、建築の美しさだけではない。法華経の「見宝塔品」が描く——地中から巨大な塔が現れ、多宝如来が釈迦の教えの正しさを証明する——という劇的な情景が、石と木と漆喰の形に変換されたものが多宝塔だ。
下層の円形は「すべてを包み込む胎蔵界の宇宙」を表し、上層の方形は「切り立った金剛界の知慧」を表す。円が方形を支え、方形が宝形造りの屋根を通じて一点の相輪に向かって収斂する——多宝塔の独特なシルエットの中に、密教が1200年かけて練り上げた宇宙観が圧縮されている。
御朱印帳を手に寺院の境内を歩くとき、境内の隅に立つ多宝塔を見つけたならば、一度立ち止まってほしい。亀腹の白い曲線を目で追いながら、法華経の「多宝如来の塔」の物語を思い出す——そのひとときが、境内の時間をすこしだけ厚くする。
多宝塔を知ると、密教の寺院への見え方が変わる。「なぜこの寺院に、この形の塔があるのか」——その問いに答えを持っていることが、参拝の深さをつくる。御朱印帳に積み重なる朱印のひとつひとつに、このような問いと答えが刻み込まれていく。それが御朱印めぐりの醍醐味だ。
画像ライセンス
- 根来寺大塔(Negoroji01s3200.jpg): 663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- 石山寺多宝塔(Ishiyamadera29n4272.jpg): 663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- 楽法寺多宝塔(Rakuhoji_temple_Tahoto_Tower.jpg): Kiku-zou, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons


